人間関係における「距離感」の話

人間関係における「距離感」とは

先日のエントリで、「人間関係の距離感覚」という概念を導入した。

人が他人との関係性で認識できる距離の限界を仮に『1km』としよう。(略)『1km』の外に行った人は、自分にとって「無関心」という扱いとする。

……こういった具合のものだった。

このような考え方は、近ごろの私の中ではほぼ定着している。
現在の私は、以下のように「距離感」を仮定して考えている:

  • 無限遠》……赤の他人
  • 《1km圏外》……ほとんど他人
  • 《1km圏内》……知ってる人
  • 《100m以内》……かなり近しい人。構えずにストレスなく話せる
  • 《10m以内》……同居家族

だいたい、こんなところだ。

こんな風に前提として設定しておくと、「あの人との距離感は《100m》ぐらいかな」とか考えやすいように思う。

「距離感の非対称性」

自分が相手に対して感じる「距離感」が、相手が自分に対して感じる「距離感」と一致するとは限らない。
これを「距離感の非対称性」と呼ぶことにした。

自分は距離《50m》の親しい友人と思っていたのに、相手からは《300m》ぐらいの数ある友人の1人と思われている、とかそういう話だ。

お互いの「距離感」をすり合わせることの大切さ

そんな悲しいすれ違いを生まないために、互いの「距離感」をすり合わせることは重要だ。

よくありそうな例として、若い男性は小悪魔系八方美人女子に安易に舞い上がらないように気をつけよう。
あなたがその女性に感じる距離より、おそらく彼女があなたに感じる距離は遠い。

「距離感」の食い違いに関して、私の実体験からもう一つ例を挙げよう。
少し前に、ある人から次のような指摘を受けたことがある。

「あなたはいつも唐突すぎて、人をびっくりさせてしまう」

これも、「距離感」の不一致から来る現象だと、今ならば理解できる。
それもそうだ。
今まで《無限遠の彼方》にいたと思っていた相手が急に《目の前》に現れたら、誰だってビビる。私だってビビる。
その前に、いくつかのステップを踏むべきだったのだ。

ヤマアラシのジレンマ」について

ヤマアラシのジレンマ」という言葉がある。
往年の名作アニメ『エヴァンゲリオン』に登場して有名になった言葉だ。私もあれで知った(*1)。

ヤマアラシのジレンマ」とは、人間関係における二律背反した心理状態を表す。
より詳しく述べると、人間同士が互いに仲良くなろうと心理的に近づこうとしても、互いを見えない針で傷つけ合って、一定以上には近づけない――即ち、「近づきたいのに近づけない」という二律背反した心理状態のことを指す。

上で述べた「距離感」の考え方を適用するならば、距離を縮めようとして失敗し、互いに傷ついてしまうということになるだろう。
言葉のイメージからは、ぶつかり合って衝突や拒絶が起こるのかな、と想像してしまうが、現実には近づかれた方がスルッと身を躱すことによって、近づいた方が自傷してしまうことが多いのではないかと思う。
あるいは逆を考えるならば、苦手な相手が近づいてきたことによって、自分にしか見えない針でチクチク刺されるとか。

そうやって傷つきながら、相手との適切な距離を学んでいくのが、「ヤマアラシのジレンマ」というものらしい。


この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、文章を再構成して書きました。

*1:実はハリネズミだろ、というツッコミもあるようだが、それについてはここでは取り扱わない。

「日常」と「無関心」の間

TL; DR

社会的立場や環境が大きく変わると、それまでの人間関係が断絶することってあるよね、という話。

やや長いめの補足

「人間関係の距離感覚」という概念を導入すると、この話を少し認識しやすくなるように思う。

人が他人との関係性で認識できる距離の限界を仮に『1km』としよう。
実世界においては、目の良い人なら見えるかな、ぐらいの距離だ。

『1km』の外に行った人は、自分にとって「無関心」という扱いとする。

進学、就職・転職、結婚、引っ越しなどのイベントによって、自身の社会的立場や生活環境の変化に伴い、周囲の人間関係も大きく変化することがある。
それによって、自分の『100m』以内にいる、「日常」生活の中で接する人々がガラリと入れ替わる、ということが起こり得る。

その変わりたてのときに、新しい人間関係の構築にかかりきりになってしまうのは、まあ仕方のない話かもしれない。

だがそれによって、今まで『100m』以内にいた人たちが、気づいたらいつの間にか『1km』圏外に行ってしまっていた、ということが往々にして起こりがちなのではないだろうか。

……というか、筆者個人の体験として、しばしば起こってきた。

それに関して、筆者自身、反省と後悔の念はある。

もちろん、人と人との関係は双方向のものだから、それについて筆者だけが悪い、ということもないのかもしれない。
むしろ、相手から繫ぎ留めてもらえなかったことを嘆くべきなのかもしれない。

それを「結局、その程度の関係だったんだ」と諦めて切り捨ててしまうことは容易い。

しかし、それでいいんだろうか。

『100m』以内に留めておくことが難しくても、自分が少し努力すれば『200〜300m』ぐらいの距離は維持できる(できた)かもしれない。

それまで仲がよかった人に対して、環境が変わったからといって、「はい、さよなら」と、『1km』圏外に追いやってしまうのは、悲しいことではないだろうか。
それを意図的、または自覚的に行うのならまだしも、無自覚の内にやってしまう(しまった)としたら、どうにか手を打って挽回したいものだ。

『100m』以内の「日常」接する人たちと、『1km』圏外の「無関心」領域の人たちとの間を、別の関係性の人たちで埋めることはきっとできるだろうと思うのだ。


この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、推敲して書きました。

年に1回会う関係は、実は結構仲が良いということ

この話が当てはまる人の前提として、「学校教育の課程を終え、社会に出て1年以上経った」という人たちを想定している。
更に、「生まれ育った土地から離れた経験がある」という条件も加えるべきかもしれない。

さて、みなさんがこの1年で会った人たちの中で、今の仕事とは無関係に、学校教育を終えた後も年に1回以上の頻度で会っている、という人は果たしてどのくらいいるだろうか?

「たくさんいるよ」

と答えられる人は少数派ではないだろうか。
少なくとも筆者にとっては、そんな人は中々いない、稀有な存在だ。

社会に出ると、生活の中心は仕事になる。
更に家庭を持つと、それだけで24時間が埋まることもある。
仲が良かった者同士でも疎遠になることは珍しくない。

それなりの密度で同じ時を過ごした者同士なら、数年越しの再会でも意外とすぐに打ち解けられるものだ。
ただし、それを繰り返していたら、人生の内でその人と会えるのはあと10回とか20回(下手したら数回)とかいう話になる。

「……あれ? それで良かったんだっけ?」

とならないだろうか(筆者はなった)。

それに、久しぶりに会ってすぐに打ち解けられる関係性だったとしても、長く離れていたら多少、不安にもなる。
通じ合っていたと思っていても、自分だけの思い込みだったのではないか、と揺らぎもする。

筆者にも子供の頃ずっと仲が良かったが、今は音信不通になっているような友人がいる。
中年ぐらいになると、「ひょっとして、もう死んでたりしないよな……?」とか、思わないでもない。

だから、「自分にとって大事な人なら、きちんと連絡を保った方が良い」という当たり前の結論が出てくる。
まめに連絡を取り合うのは、そんなに多人数でなくてもいいだろうが、たまに連絡を取るぐらいならそれほど負担でもない。

そして、会えるなら会おう。

せめて、年に1回ぐらいは。


この記事は、しずかなインターネットに書いた下書きを元に、推敲して書きました。

「自分磨き」について

「自分磨き」という言葉がある。

人生の早い内から自分を適切に磨いて高めて行けるとしたら、それは恵まれた、おそらくは幸いなことだろう。

それには才能だけではなく、環境も大事な要因だろうと思う。
例えば、特別に優れたものでなかったとしても、まともな教育を受けられる環境にあったことは幸いだったと思う。
勉強以外についてはどうだろうか。
例えば、大谷翔平羽生結弦といったプロスポーツ選手が青年期から世間を賑わすほどの活躍を見せているのは、彼ら自身の才能や努力と周囲の環境が噛み合っていたからではないかと思う。

そうではなく、野に咲く花のように埋没してしまった者にとっては(それの良し悪しはさておき)、どれか1つ以上が揃わなかったと言えるのかなと思う。

どんな分野でも、適切な師を見つけるか、学習・修得のための環境が整っていない限り、自らを適切な方法で高めていくことは手探りにならざるを得ないだろう。
もし、大谷選手や羽生選手の指導者がトンデモな人達だったら、それでも彼らは開花したかもしれないが、やはりそれは大きなハードルになっただろうと思う。

私ももう「中年」と言われる年齢だ。
この歳になってようやく、「こうなりたい」と思ったときに、最善手でなくとも、それなりの方法で無理なく取り組めるようになったような気がしないでもない。(様々な分野で情報を得る手段として、インターネットは大いに役立っている)

若い頃の自分の不器用さ加減を思うに、それが上手くできない場合というのは、努力が長続きしなかったり、1つのことだけにかまけて他が疎かになったり、磨こうとしてかえって駄目にしてしまったり、そもそも正しいやり方がわからず見当違いのことをやっていたり、ということが往々にしてあるように思う。

歳を取ってからは、手が届きそうな高みに必要な努力の量もなんとなくわかるようになった。
それと同時に、自分の限界を悟ることもある。

どれだけ努力しても、若かった頃に戻ることはできない。

だから、冒頭に記した通り、人生の早い内から自分を適切に磨いて高めて行けるとしたら、それは恵まれた、幸いなことだろうと思うのだ。

2023年の振り返り〜囲碁にハマったら人生変わった件〜

こちらのブログを更新するのも随分と久しぶりだ。

さて、年末ということもあり、主に今年起こった出来事の中で、自分にとって最も大きかったことについて記しておきたい。
……といっても、何かわかりやすいイベントがあったわけではなく、自分の心の内側――内的な変化がそのきっかけにあった。
一方で、それを契機として自分の行動や状態も変化した。

その辺りを今年の振り返りという体でこのエントリにまとめる。

  • 先にまとめ(TL;DR)
  • 前提: 仕事と趣味について
  • 停滞していた数年間(2018〜2023年8月頃)について
  • ターニングポイント=囲碁
  • それからどうしたか(9月以降)
  • それからどうなったか(12月現在)
  • 改めてまとめ
  • むすびに

先にまとめ(TL;DR)

3行でまとめると下のような感じ。

  • このおよそ数年間、様々な物事に対してモチベーション(=やる気)が極めて低い状態で過ごしていた
  • 8月にたまたま囲碁にハマり、なぜか結果として我が身を省みて色々改めることができた
  • 最近は毎日健康で充実した生活を送っている

前提: 仕事と趣味について

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ここ数ヶ月で読んだ漫画27作品をオススメ順に紹介する

最近しばらく体調を崩してダウンしていたことがあって、主にその時期にKindleで大量に漫画を買って読んだ。
そのとき読んだものを含め、ここ数ヶ月で新規に読んだ漫画、あるいは読了した漫画をオススメ順に並べる。

特に一時期、5巻以内で完結するものや、10巻前後で完結するものを探して買い漁っていたので、そういうのが多い。

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『NETFLIXの最強人事戦略』を読んだ

最近、掲題の本が私の周囲で流行っていたので、勤め先で技術書籍の購入を担当している人に「読みたいです!」と訴えたところ、翌々日ぐらいに入荷して、私のデスクの上に置かれていた。

…で、2週間ぐらい掛けて読んだので、感想などを書く。

そもそもNETFLIXとは?

「知ってるよ!」という声がたくさん返ってきそうだが、最近は日本でもすっかり有名になった映像ストリーミング配信の大手会社だ。
既存の映画やドラマだけでなく、オリジナル作品の配信も行っている、ということも既によく知られているだろう。

だが、元々は1997年にDVD郵送レンタル会社として始まったことを知っている人は、日本では多くないのではないだろうか。
少なくとも、私は本書を読むまで知らなかった。
その後、何度かビジネスモデルを変化させ、いわゆる「イノベーションのジレンマ*1に陥ることを上手く避けながら、今日の繁栄を築いてきた企業なのだ…というのは、本書末尾の訳者あとがきの受け売りである。

NETFLIXは、いかにして「イノベーションのジレンマ」を回避し、自らを変革させ続けることができているのか。
そのヒントになるのが、同社のカルチャーであり、本書に示される人材活用の戦略である。

本書の概要(雰囲気)

この本の著者は、NETFLIXの創業メンバーであり、2012年まで人事最高責任者として務めたパティ・マッコード氏だ。
彼女は同社の企業文化を表したCulture Deckを、創業者でありCEOのリード・ヘイスティングス氏と一緒に創り上げた人物でもある。

この本は、彼女が人事戦略を通していかにNETFLIXのカルチャーを作り上げていったか、その14年間の軌跡が綴られている。
ただし、教科書のように原理原則を先に立てて示していくような書き方ではなく、14年間でどんな困難に出遭い、どう決断してどう解決してきたかという赤裸々なストーリーがいくつも展開されている。

なので、読み物としても面白く、割とさくっと読めてしまうのではないだろうか。
その上で、内容はとても刺激的だった。
確かに、著者視点で考えてみれば「なるほど」と頷けるのだが、週明け出社して会社に「このやり方を試してみましょう」と提案するのは大変な苦労を伴いそうだ。
そのぐらい、変革に満ちた内容だと言える。

気づき

たくさんあるが、全部書くとネタバレしすぎて良くなさそうなので、いくつかにしておく。

  • 従業員に自由と責任を与える
    • 例えば、同社では有給休暇制度が廃止された。従業員は好きな時に休めるし、人事は休暇を管理しなくていい。ほとんどの従業員は適切な範囲で休みを取るという。
  • 徹底的に正直になる。経営者が率先して見本となる
  • オープンなフィードバックシステム。「ストップ、スタート、コンティニュー」……止めてほしいこと、新たに始めてほしいこと、続けてほしいことをフィードバックする。同社では後にいつでも誰にでも 記名して フィードバックを送れるようなシステムが出来たという。
  • スポーツチームの運営をしているような感じ。だからトップ選手だけを起用するし、メンバーを頻繁に入れ替える。
  • 従業員特典が素晴らしい仕事をさせるわけではない
  • 前向きな解雇はその人にとってもより良い未来を切り拓く*2
  • 人事考課制度の廃止
  • 給与制度と人事考課の分離

「人事考課制度の廃止」などと言うと、もう企業の人事担当者やマネージャーは拒絶反応を起こすのではないだろうか。
しかし、「膨大な時間とコストを掛けている」にもかかわらず、企業にとって「重要な経営指標の改善につながっている」と言えるだろうか? 本書では、「そうでないなら、段階的にでも廃止していった方がいい」と示唆している。実際に、「アクセンチュア、デロイト、GEといった名だたる優良企業が」従来の人事考課制度を廃止し、「新しいやり方を導入している」らしい。
少なくとも、やり方の見直しは考えた方がいいかもしれない、と思った。

また、給与制度を人事考課と分離する、というアイディアは、最近知ったサイボウズ社の人事・給与制度にも通じるものがあった。

給与は能力に応じて支払えば良いし、それとは別に仕事についてのフィードバックは随時行えばいい、というのはとても理に適っているように感じた。

まとめ

以上、『NETFLIXの最強人事戦略』を読んだ感想や気づきを書いた。

本書には、最近組織について考えていた課題や、ふだんのチーム運営において参考にできるヒントがたくさんあったように思う。
もう少し消化して自分なりに整理しておきたい。
特に解雇については、米国と雇用制度の違いもあるし、愚直に真似できるものではない。

ひとまず、会社の書庫から借りて読んだが、この本も自分で買うことになりそうだ。

参考

*1:イノベーションのジレンマ - Wikipedia

*2:本稿の内容からはやや脱線するが、『君たちに明日はない(新潮文庫)』という小説を思いだした。