ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を読んだ

1984年は、私の生年でもある。
この題名を冠した小説が今年、話題となったのは米トランプ政権発足当初、あの「オルタナティブ・ファクト」というパワーワードが出現したことが契機だったようだ。

私が本作の存在を知ったのはこの時だ。
ディストピアを描いた有名な古典SF」として興味を引かれたが、書店で本を購入したのは3ヶ月ほど前だったか。
ちまちまと読み続けて、つい先日やっと読み終えた。

以下、その感想や付随してぼんやり考えたことをつらつらと記す。

読書体験の感想

はっきり言ってつまらなかった。
全体的に陰鬱な雰囲気であり、前半は殊にテンポが悪く、魅力的な人物も出て来ないし、興味を引かれる出来事も起こらないし、退屈だった。
中盤でヒロインがヒロインとして登場すると、やっとちょっと面白くなって来る。
が、後半でまた大きな試練がある。長い長い本の引用パートだ。読み飛ばしたくなったが、一応、ストーリーの核心部分である。読みながら2回ほど眠りに落ちたが、なんとか頑張って読んだ。

読後感についても、これを読み終えて「すっきりした」という人はほぼいないのではなかろうか。
この作者は読者を楽しませようという気はきっとない、と私は思った。

まあ、私がふだん読むものは通俗なミステリーとかラノベとか漫画とか、お約束的な展開が盛り込まれているものが多かったりするので、文化が違いすぎたというのも有るかもしれない。

とはいえ、下の記事によればこの作品は「読み切れない作品としても有名」なのだそうだ。

たぶんそれは、私が上に書いたような理由で、途中で挫折する人が多いからなのだろうと思う。

内容についての所感

私の所感は、上の考察記事の筆者と近いものがあって、トランプ政権と本作の「ビッグ・ブラザー」を頂点とする専制政治とを比べるのはナンセンスだと思う。
彼は「ビッグ・ブラザー」ではない。そんな絶対君主だったら、叩かれてないはずである。

例えば下の解説記事は、「今日の社会では権力は分散している」と述べている。

このように、『1984年』で描かれている世界観は、2017年の実情にそぐわないところが有る。

私が読んだ新訳版にはトマス・ピンチョン氏の解説がついていた。
その解説の内容に影響を受けた発想となるが、本作が描いたディストピア社会は、本作が発表された1949年ごろの、特に共産圏の政治体制に大きな影響を受けている気がする。

今日のディストピア社会の実現可能性について

トランプ政権はさておき、ディストピアを実現するための技術的な土壌はもう整っていると思う。
エドワード・スノーデン氏によるNSAの告発が世を騒がせたことは、みなさんの記憶に新しい出来事だろう。*1
情報技術によってプライバシーを含むデータを収集することは可能だ。
サービスの利用規約や法律やリテラシーが私たちを守ってくれているけど、政府が意思を持って「それ」をやりだしたら、人民には分の悪いことになるかもしれない。

上に書いたように「権力が分散」し、互いに牽制し合っているから、「それ」が進んでいないだけなのかもしれない。
例えば、「平和の維持や差別の根絶のためには、公の機関があらゆる通信を監視するのも仕方がない」のような世論が強まるとか、それに類いするような何かしらのきっかけによってレバーが大きく傾いてしまえば、今の感覚からは容認しがたいような監視社会がかんたんに出来上がってしまってもおかしくないと想像する。

最後に

1984年』を読んで、その内容を知ることができたのは良かった。
だが、小説をまるっと読まなくても、例えば映画版を観るとかでも良かったかもな、と思わなくもない。

すごく支配欲がある人とか、「人類全体のために大衆は管理されるべき」のような思想の人以外では、誰もこんなディストピア社会を望まないと思うけど、敢えて今日の社会からそこに至る最短ルートを描いて、社会シミュレーション的な小説を書くのもアリかも。
タイトルは『2034年』とかかな。

参考

脚注

*1:ちなみに、この告発事件のときも『1984年』は売れたらしい。何かのきっかけで売れる本のようだ。